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●「釣りバカ日誌」論
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浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。日本人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い(=パーティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそいそと旅行に行こうものなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識は、けっして世界の常識ではない。 |
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■子はかすがい論
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たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。 |
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■親のうしろ姿
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生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。 |
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■親の威厳
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「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。 |
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■育自論
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よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。 |
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■親孝行論
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安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。 |
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■「産んでいただきました」論
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● よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。 |
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■水戸黄門論
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日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意! |
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■「釣りバカ日誌」論
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男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。 |
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■「かあさんの歌」論
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K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」だ。 |
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■内助の功論
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封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。 |
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●同一性の危機
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万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に立たされる。 |
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●夢・希望・目的
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夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる |
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●子どもの忍耐力
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同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。 |
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