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●子どもに育てられる
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親は、子育てをしながら、子どもに否応(いやおう)なしに育てられる。はじめて子どもを幼稚園へ連れてきたような母親は、たしかに若くて美しいが、中身がない。そんな母親でも、子育てで苦労をするうち、やがて姿勢が低くなる。幼稚園を卒園するころになると、みなに、深々と頭をさげるようになる。中身ができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。子どもに育てられることを、恐れてはいけない。 |
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●熟成される「善」
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西洋では、「善と悪は、神の左手と右手である」という。しかし善と悪は、決して、平等ではない。善人ぶることは簡単なこと。しかし自分の体の中から、悪を抜くのは、容易なことではない。しかもその善と悪は、長い時間をかけて、心の中で熟成される。とくに善は、10年とか、20年とか、長い年月を経て熟成される。いつか、あなたも、親ではなく、1人の人間として、子どもに評価されるときがやってくる。その評価に耐えうる人間になれるかどうか。それは子育てにおける、大きなテーマのひとつと考えてよい。 |
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●すなおな子ども
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親や教師の言うことに従順で、それに静かに従う子どもを、すなおな子どもというのではない。すなおな子どもというときは、(1)心の状態(=情意)が、そのまま表情となって表れる子ども、(2)心のゆがみ(いじける、つっぱる、ひねくれるなど)のない子どもをいう。イヤだったら、「イヤ!」と言う。何でもないことかもしれないが、それが自然な形でできる子どもを、すなおな子どもという。 |
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●至上の愛
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ある母親は、自分の子どもが死ぬか、生きるかの大病を繰りかえしたとき、天に向かって、こう言って祈ったという。「私の命は、どうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、子どもの命を救ってエ!」と。こうした(自分の命すら惜しくない)という、まさに至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。子どもを、ただの子どもと思ってはいけない。あなたの子どもは、あなたに何かを教えるために、そこにいる。 |
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●シャドウに警戒する
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人は善人ぶることによって、自分の中に潜む(邪悪な部分)を、どこかへ押し込める。これをユングという学者は、「シャドウ」と呼んだ。そのシャドウを、子どもはうしろから見ていて、そっくりそのまま、引き継いでしまう。ときとして、牧師や僧侶など、聖職者と呼ばれる人の子どもが、凶悪犯罪人になるプロセスは、こうして説明される。善人ぶるとしても、それを仮面(ペルソナ)として、意識すること。仮面を脱ぎ忘れてはいけない。 |
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●自立したよき家庭人
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アメリカでもオーストラリアでも、そしてドイツでもフランスでも、親や教師たちはみな、こう言う。「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」と。が、一方、この日本では、いまだに、出世主義、名誉主義、さらには権威主義が、大手を振って、まかり通っている。封建時代の亡霊たちが、いまだに、のさばっている。そしてそれが教育について言えば、諸悪の根源になっている。 |
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●「偉い」という言葉を、廃語にしよう
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日本では、地位や肩書のある人を、「偉い人」という。一方、英語には、「偉い人」にあたる言葉すらない。あえて言うなら、「respected man」ということになる。「尊敬される人」という意味である。地位や肩書は、関係ない。だから子どもには、「偉い人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。それが子どもの心をまっすぐ伸ばす。 |
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●「家族」という重圧
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家族は、それ自体、美徳であり、個々の人の心をいやす、心のより所である。が、その家族も、ひとたびリズムが狂うと、今度は、重圧感となって、その人を苦しめることもある。事実、その重圧感(=家族自我群)の中で、もがき苦しんでいる人も多い。反対に、自分の子どもを、安易な親意識で、縛りつける親も少なくない。「産んでやった」「育ててやった」と。こうした言葉は、親子の間では、使うとしても、心して最小限にする。 |
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●恩の押し売り
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日本の親たちは、無意識のうちにも、子どもに対して、恩の押し売りをする。「産んでやった」「育ててやった」と。その代表的なものが、窪田聡という人が作詞した、『かあさんの歌』。「♪せっせと手袋編んでやった」「♪おとうは土間で、藁打ち仕事」と。あれほどまでに恩着せがましい歌はない。言うとしたら、「♪春になれば、温泉へ行ってくるよ」「♪家のことは心配しなくていいからね」だ。 |
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●悪玉親意識
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親意識にも、2種類ある。善玉親意識(=私は親としての責任を果たすという親意識)と、悪玉親意識(=親風を吹かし、自分の子どもを自分の支配下に置こうとする親意識)。悪玉親意識が強い親は、「産んでいやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、そのつど、親の恩を子どもに押しつける。そしてあげくの果てには、「大学まで出してやったのに、何だ、その態度は!」と言うようになる。悪玉親意識に、注意! |
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●親の統合性
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子どもは、自分のしたいこと(=自己概念)を、現実にすること(=現実自己)によって、自分を確立することができる。これを「自己の同一性」という。一方、親は、それでは満足できない。親は、自分がすべきことを、現実にすることによって、自分を確立する。これを「自己の統合性」という。その(すべきこと)には、多くのばあい、苦労や苦痛がともなう。親は子育てをしながらも、自己の統合性をめざす。 |
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●人生の正午
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満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つまり「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこと)ではない。(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、みじめなものになる。孫の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべき(老後の生活)ではない。 |
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●「だから、それがどうしたの?」
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(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、自分にこう問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?、と。あるいは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。(したいこと)をしても、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その答が返ってくる。 |
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●子育ては、子離れ
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心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子どもの親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも子離れできなくなってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生活をしている自分の息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私のことは心配しなくていい」「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、けっして美化してはいけない。 |
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